Vol.7 TAKUさん<前編>

18 Feb,2022 #プロの領域。プロの聖域。

Vol.7

guest
ヘアスタイリスト TAKU




長年にわたり第一線で活躍するクリエイターをゲストに迎え、ファッションからビューティ、ライフスタイルまで。それぞれのこだわりや美のフィロソフィーについて語り合います。







日本でその職業を確立させたヘアスタイリストは、いかにして生まれたのか?
濱田さん(以下MASARU)

TAKUさんと初めてお目にかかったのは、10年ほど前。シャンプーのコマーシャル・キャンペーンでご一緒したときでしたね。強烈な存在感、卓越したテクニック、独特のバランスにプレゼンテーションスキル……。アーティストとして、美容業界の先輩として、大尊敬しています。そう言えば、TAKUさん、ご出身ってどちらなんですか?

TAKUさん(以下TAKU)

兵庫です。厳格な父と、欧米文化好きの母のもとで育ちました。母が夜、三面鏡に向かって髪をカーラーで巻いていたのを覚えているし、また、日曜になると必ず、僕は母に「日曜ロードショー」で洋画を観せられていて、そこで、ヴィヴィアン・リーやマリリン・モンローなど、ハリウッド女優の顔や名前を覚えたんだよね。

MASARU 

お母様の影響を強く受けていらっしゃるんですね。今の職業に就こうと持ったきっかけはなんだったんですか?

TAKU

高校生の頃から、漠然とクリエイティブな仕事をしたいと思いながら、具体的にそれが何かまではわからなくて。結局、大学受験に失敗して浪人している間に、姉が持っていた『フレンチ マリ・クレール』のページをぱらぱらとめくっていたら、思わず、ピーター・リンドバーグの写真に目が釘付けになった。海を背景に、潮風にさらされて束になったモデルの髪が顔にかかったモノクロ写真で、それがとてつもなく美しかったんだよね。決して大げさじゃなく、脳天に稲妻が走った。ああ、これだ、僕がやりたかったことは、って。

MASARU 

1枚の写真がTAKUさんの運命を変えたんですね!

TAKU

この1枚は「ヘア」ですべてが成立していると直感したんだよね。そのヘアスタイルを作っていたのが、ヘアスタイリスト、ジュリアン・ディス。もしかしたら自分は、チームの中の、ヘアスタイリストというポジションで「画(え)を創る」ことができるかもしれない。それが自分に合っているんじゃないか。その瞬間に、大学に行くのを辞めようと決めた。父は反対するだろうと覚悟していたら、意外なことに賛成してくれて。そこで、神戸のヘアサロンで働きながら、美容学校の通信教育でもベーシックを学び、21歳でジュニア・ヘアスタイリストとしてデビューしました。




MASARU 

「絵を描くようにヘアを作ることができるアーティスト」になりたかったなんて、ヴィジョンがはっきりとしていたんですね。21歳のデビューは、すごく速い!

TAKU

だって、朝早くから終電ぎりぎりまで、めちゃくちゃ練習したもの(笑)。ただ、僕が追い求めているものとはかけ離れていて、どこか「もやもや」を感じていたのも事実。そんな中、東京のヘアサロンへの誘いを受け、任されることに。23歳のときでした。そこで働きながら、休みの日にはフリーのヘア&メイクの人の手伝いをしたり、銀座のセット専門のサロンに修行に行ったり。一方で、当時、お洒落な人たちが集っていたクラブに通ってコネクションを作り、自ら営業をして少しずつ仕事が来るようになったんです。それでもまだ「もっと高みへ」という心は満たされずにいました。




MASARU

東京に来るタイミングもチャンスもすべて、確実に自分の力で手に入れていますよね。

TAKU

25歳のとき、父が他界したことが大きなターニングポイントになりました。「頼れるもの」を失ったことで、本気で自分のやりたいことをやらないといけないと思ったんだよね。そこで、まったくの一匹狼になろうと決意。サロンを辞めて26歳でフリーとして活動を始めました。まったく仕事がなかったところから、いろいろな人との縁や彼らのサポートのおかげで徐々に仕事が増え、気づけば、人気ミュージシャンやモード誌のカバーも担当。! そんな中、海外のあるフォトグラファーが「なぜ、海外で仕事しないの?」と。突っ走っていたから意識する機会がなかったけれど、その言葉をきっかけに、自分の力を試したいという思いが高まった。東京を出て、日本を越えて、海外で挑戦したい、と。そして……、なんと、ジュリアンに会いに行くんだよね。

MASARU

ジュリアンに!? それはどなたかの紹介だったんですか?

TAKU

たまたまお世話になっていた人がリンダ・カンテロと知り合いで、連絡先を教えてくれたんです。まだメールなどなかった時代。パリに赴いてから、公衆電話で連絡をしました。今でもよく覚えてる、リンダは「今お風呂に入っているから○分後に電話して」って(笑)。そして「ジュリアンのショーのヘルプをしたい」と直訴。それから1カ月知り合いの小さなアパルトマンに居候をして、自分の運命を決めたジュリアンの間近でその仕事ぶりを見る機会をゲットしたんです。

MASARU

神戸、東京、パリ。どこにいても、とにかくアグレッシブながら、確実に丁寧にというイメージですね。結局、パリではなく、なぜロンドンに?




TAKU

当時、東京をベースにしながらもパリには頻繁に通ってショーの仕事もしていました。もちろん、ノーギャラ。「仕事を見たい」というスタンスだから、ね。そんなあるとき、リンダ・エヴァンジェリスタの髪をホットカーラーで巻いたら、とても褒めてくれて、それをきっかけに僕の前にモデルたちの列ができるようになったんだよね。ジュリアンも、いいね、と。そのころはまだ英語もさほど堪能ではなかったけれど、僕はこれでコミュニケーションが取れる、と自信になった。パリに拠点を置こうと思い描いていたけれど、自分の可能性を追い求めて、N.Y.やロンドンにも足を延ばし、リサーチ。熟考した結果、エレガントとストリートが融合しているロンドンを選びました。そのとき、決めたんだよね。「やりたい仕事しかしない、お金のためだけに仕事はしない」と。そこで、目標にしていたお金を貯めて日本を離れ、完全にロンドンに移住。1997年、32歳のときでした。

MASARU

まさに、自分で切り拓いたキャリアですね。イギリスは就労ビザの取得が難しいと聞きました。

TAKU

ロンドンにいた、あるメイクアップアーティストの日本人女性に言われたんです。「飛べないヘアスタイリストだよね」と。つまり、このままだと世界を自由にフライトできる本物のヘアスタリストにはなれない、と。その言葉で、心に火がついた。そこでさまざまな努力を重ねた結果、実績が認められて就労ビザを取得できました。たぶん、日本人ヘアスタイリストとしては、初めてなんじゃないかな? それからおよそ8年。ロンドンを拠点に活動したんです。



後編につづく
TEXT :CHITOSE MATSUMOTO