ーかぶらない猫の話ー vol.2 一汁三菜のプレッシャー

03 Aug,2022 #かぶらない猫の話




料理は好きでも嫌いでもないのですが、日々小学生男子(息子/7歳)の夕食を用意するというタスクが、私の精神を地味に圧迫してきます。理由はいくつかあって、まず台所に立っているときだけが拘束時間なのではないこと。献立を決める、材料を揃える、食器を洗うなどの付帯業務が発生します。それらをいちいち苦行に感じてしまうのです。
その感情は、息子の食の嗜好とも関係しています。ハンバーグ、カレー、ビーフシチュー、ミートソース、たこ焼きのような、ソースやケチャップ、あるいは醤油とみりんと砂糖で味付けをしておけばOKみたいな、ごくごく小学生らしい味を好む息子。何ら問題のない、子どもらしき事実でしかないのですが、オリーブオイルと塩みたいな私の嗜好と合わないため、作るにあたって私のテンションが上がらないのです。

そして息子は食事を非常にゆっくりのんびり食べます。別にいいじゃないの、ゆっくり食べさせてあげなさいよという話なんですが、こちらとしては片付けがあるから食べ終わるのを待たなければならない。どう待つか。会話をしていたらどんどん遅くなるし、じゃあ私はちょっと向こうの部屋で原稿でも書いてるわねと自分時間に入ってしまうのもいかがなものなのか、親として。と悩んでしまいます。


早く食べなさいと毎回毎回言うのもそれはそれで空気が悪くなり誰も楽しくない、そして言ったからといってスピードアップするわけでもなく、この拉致のあかなさがなんとも居心地が悪い。そしてその、すっきりと解決しない状況の原因は何かというと、自分の親としての未熟さに他ならないのではないか、と責められている感じがたまらなく嫌なんですね。



料理のメニューに関しても、一汁三菜という言葉があると思うのですが、私は基本的に専業主婦の母のもとで、そのような食卓で育ってきています。ご飯、味噌汁、メインディッシュ、副菜がいくつか。でも私はたとえば親子丼やカレーライス、ミートソースなどをメニューにする場合、他に一汁も一菜も一切用意しない、なんてこともあるし、一汁二菜や無汁二菜がデフォルトです。もちろん外食や中食の日もたくさんあります。そこにも罪悪感が生まれてしまいます。
実の母はもちろん、特に他の誰からも、あなたは親として未熟だねなんて言われていない。かの土井善晴先生だってご著書を通して「一汁一菜でいい」と仰ってくれています。それなのになぜ辛くなってしまうのか。きっと、なんとなく自分のなかに理想の親像のようなものがあって、そこに自分が到底かすりもしていないからということなのでしょう。そしてそれだけ、母に育ててもらってよかったという気持ちが私のなかにあるということなのかもしれません。
とはいえ私と母では性格もライフスタイルも違います。母のような専業主婦の人生も素敵ですが、私にはやはりさほど向いているとは思えません。それなら自分らしいスタイルを模索すればいいじゃないかと、余裕のあるときは思えるんですね。でも、疲れて余裕がないときは、なんて自分はダメなんだろうと悲観してしまう。これって本当に何なのでしょう?



かつて息子の離乳食が始まる頃、なかなか食べてくれないことを仕事先の方に相談したら「人間、飢餓状態になればなんでも食べる。そんなに心配することじゃないのでは」と言われて、それもそうだなと気持ちが楽になったことがありました。なんとなく、こうでなければいけないというぼんやりとした思い込みが自分のなかにだけあって、それに勝手に縛られて、勝手に悲観してしまうのはなぜなのか。こうして書いていると自分でも不思議です。
きっと息子がもっと大きくなって思春期の悩みや受験の悩みなどに向き合う頃には、食事をするのが遅かったことや、一汁三菜に届かなかったことなど、笑い話になってしまうんでしょう。そんなことにさえ想像が及ぶのに、なぜ引っ掛かってしまうのでしょうか。自分にダメ出しをすることで、素敵な親を目指している自分の体裁が保てるからなのでしょうか?身も蓋もない言い方ですが。
でも、余裕がある時間にこうして不思議がって、少しだけリセットして、また今晩から面倒な気持ちも抱えながら、きっと私なりの夕飯を作っていくのでしょう。そうして、なんとなくイマイチだけれど振り返ればきっと幸福な、日々を重ね、紡いでいくのだろうな、と思います。

TEXT : AYANA